ギターより先に、ラジオがありました。
中学生の頃から、毎晩、深夜放送を聴いていました。ヤンタン、ヤンリク、そしてバチョン。布団に入って、枕元に小さなラジオを置いて、親に見つからないように音を絞って聴く。あの時間が、いま思えば、自分の入口だったような気がします。
そして、そのうちの一つに、ハガキを出しました。読まれました。本にまでなりました。その本が、いま手元にあります。

さらに数年後には、聴いていたその深夜放送に、出る側で立っていました。そこまでが、ひと続きの話です。
ラジオも、買ってもらったものでした
その深夜放送を聴くために、ラジオを買ってもらいました。ソニーの「THE 11(ジ・イレブン)」です。
1万円ちょっとしたと思います。調べてみたら、3バンドの上位機種「ICF-1100D」は1971年発売で定価15,300円。安いほうの兄弟機もあったので、うちにあったのはそちらだったかもしれません。
そして、そのすぐあとに、ヤマハのギター(FG-130)も買ってもらっています。こちらも1万3千円ほど。
合わせて、2万数千円。
とんでもない額ではありません。ただ、中学生の子どもに、ラジオとギターを続けて買ってやるというのは、また別の話です。裕福な家ではありませんでした。
当時は、そんなことは何も考えていません。欲しいと言って、買ってもらった。それだけです。ただ、この歳になって振り返ると、よく買ってくれたな、と思います。愛情をもって育ててもらっていたんだと、今になってよく分かります。ありがたいことです。
ヤンタン、ヤンリク、バチョン
関西で深夜放送といえば、この三つでした。
- ヤンタン=MBSヤングタウン(毎日放送)
- ヤンリク=ABCヤングリクエスト(朝日放送)
- バチョン=ヒットでヒットバチョンといこう(ラジオ大阪・OBC)
ヤンリクは1966年から1986年まで、20年続いた番組です。リクエストハガキが主体で、DJは道上洋三さん。当時の深夜放送には、いわゆる下ネタで人気を取る番組もありましたが、ヤンリクはそれを厳しく禁じていたそうです。だから中学生でも、堂々と聴けた。
そしてバチョン。ラジオ大阪の深夜放送でした。「ヒットでヒットバチョンといこう」という長い正式名は、たぶん誰も使っていなかった。みんな「バチョン」と呼んでいました。
読まれない夜のことを書いたら、読まれた
ハガキを出していました。何度も出して、たいてい読まれませんでした。
で、あるとき、その読まれない夜そのものを書いて出した。そうしたら、それが読まれて、しかも掲載ハガキをまとめた単行本に載りました。中学3年のときです。
その本の162ページに、こう印刷されています。「バチョンの詩」(15才 中3)。

○×堂が十一時をお知らせします。
プップッポー
さあ始まった。今日こそ読んでくれるやろ。
スポーツニュースの時間です。
まだ読んでくれへん。
巨人勝ちよったか。
ウァー!十万円やて。ほしいなー。
午前0時のバチョンクイズ。
十二時半をまわりよった。
またアイツ読まれよった。
僕はまだかなー。
あと五分できょうもお別れですね。
ひょっとしたら読まれへんのとちゃうか。
はーい!お別れのテーマソングが流れてまいりました。
あーあ。今日もあかんかったか。
もうねたろ。
夜11時から0時半まで、ずっと自分のハガキが読まれるのを待っている。読まれない。「またアイツ読まれよった」。そして「もうねたろ」。
五十年以上前に自分が書いたものを、いま読み返すと、なんとも言えません。うまくもなんともない。ただ、毎晩ほんとうにそうしていたことだけは、よく伝わります。
本は、買ったものではありません
手元にあるこの本、買ったものではないんです。
見返しに、赤い印で「大阪放送」と押してあります。大阪放送株式会社、つまりラジオ大阪そのものです。掲載された者に、局が一冊送ってくれた。その印です。

同じ袖に、番組からの推薦文も刷ってあります。
昨日、今日、明日をつなぐOBCの「ヒットでヒットバチョンといこう」から生まれた若者のふぃーりんぐ。下宿屋のおばさんもよろしくね!! お世話になります。
すぐ下には、次に出る本の予告が入っています。笑福亭仁鶴著「どんなんかなぁー 半生記」(仮題)、三月中旬発売予定。同じ六月社書房から。
定価450円。いまのお金に直せば、中学生にはそこそこの額です。それがある日、家に届く。中身を開いたら、自分の書いたものが活字になっている。
景品もありました。バチョンバッグというカバンです。番組のノベルティで、当時これをもらうのが、リスナーの一つのステータスでした。いまでもネット上に「押し入れからバチョンバッグが出てきた」という書き込みを見かけます。同じものを、同じ頃にもらった人が、どこかにいる。
CMの秒数まで数えていた中学生たち
この本の163ページに、「バチョンとは…」という読者の定義が並んでいます。これが、当時の空気をそのまま閉じ込めています。
試験前には勉強をうまく進める促進剤となり、試験中は勉強のじゃまをする悪魔である。
他放送局に対抗するためのOBCのささやかなる抵抗である。
バチョンバッグとは、聴取率を少しでもあげようとするOBCの商売根性の結晶である。
局をこきおろしておいて、それを局が本にして出す。そういう番組でした。
ただ、私がいちばん感心したのは、これです。
バチョンとは、CMが十三回でCM時間が約十六分五十七秒、レコードが九曲かかり、ハガキの当選者が九名という番組。
CMの回数と、合計秒数を数えている。十六分五十七秒。ストップウォッチを持って、毎晩、布団の中で測っていたわけです。
笑ってしまいますが、笑えません。それだけ真剣に聴いていたということです。娯楽が今ほど無かったから、と言えばそれまでですが、ひとつのものにこれだけのめり込める時間があったのは、ぜいたくなことだったと思います。
DJが落語家だらけだった
同じページに、番組のDJたちの答えも載っています。名前を並べると、驚きます。
- 仁鶴(笑福亭仁鶴)——「五目メシ」
- 春蝶(桂春蝶)——「みんなと私達DJが話し合ったり考えたりする真夜中の井戸端会議」
- 小米(桂小米/のちの桂枝雀)——「バチョンはヤングの合言葉」
- 淳(浜村淳)——「電波による有意義な井戸端会議」
- 春之助(林家春之助)
上方の落語家が、深夜に並んで喋っていた。仁鶴さんが「五目メシ」と答えているのが、いかにもです。
そして、いちばん胸に残ったのが、春之助さんの答えでした。本に印刷されているまま引きます。
バチョンとは僕が春之助でなく、本名山城彰でできる唯一の仕事
芸名ではなく、本名のままでいられる場所。深夜放送は、喋る側にとっても、そういう場所だったということです。
聴いていた中学生のほうも、たぶん同じでした。学校でもない、家でもない、誰にも見られていない時間。そこで、知らない誰かと同じ番組を聴いている。
もう一冊、まだ見ていない本がある
実は、載ったのは一度ではありません。
もう一回、欧陽菲菲さんの「雨のエアポート」のイラストを描いたリクエストハガキを出して、それも載りました。ところが、そちらは別の巻で、手元にありません。
調べてみたら、シリーズで何冊か出ていることが分かりました。そのうちの一冊が『ふぃーりんぐバチョン——らくがき集』(六月社書房・1973年・208ページ)。らくがき集、つまり絵入りハガキを集めた巻です。
「雨のエアポート」の発売は1971年の12月。時期もぴたりと合います。載っているとすれば、この巻でしょう。
そして、これがまだ売っていました。中古で711円。送料を入れても1,000円ほど。いい記念なので、買うことにしました。
表紙は手元の本とまったく同じデザインです。ページ数だけが違う。シリーズで表紙を使い回していたんですね。届いたら、208ページのどこかに、中学生の自分が描いた絵があるはずです。
そして数年後、こんどは出る側にいた
ここからが、自分でも少し不思議な話です。
中学のとき、布団の中で「今日もあかんかったか。もうねたろ」と書いていた人間が、高校生になったら、その深夜放送に出る側に回っていました。
MBSのヤングタウン——ヤンタンです。アマチュアバンドのコーナーがあって、そこに友達とバンドを組んで出ました。毎晩ラジオで聴いていた番組の、そのスタジオに、自分が立っている。
ハガキを出して、読まれるのを待っていた。数年後には、マイクの向こう側にいた。当時はそんなことを考える余裕もなく、ただ緊張していただけですが、いま並べてみると、なかなかの展開です。
ヤンタンに出たときの話は、こちらに別で書きました。
ヤングタウン(ヤンタン)に出た|関西フォークとアリス谷村新司の高校時代
五十年、同じことをしている
この本を引っぱり出してきて、気がついたことがあります。
聴く側から、出る側へ。中学でハガキを出し、高校でスタジオに立った。そこで終わったつもりでいましたが、終わっていませんでした。
いま私は、自分のギターの演奏をYouTubeに上げています。上げて、誰かが見てくれるのを待っている。ほとんど反応はありません。それでも、また上げる。
中川イサトさんが亡くなったとき、追悼のつもりで「朋美の散歩」という曲を弾いて、上げました。
これがその動画です。「朋美の散歩」作曲・中川イサト。
ひとつ、白状しておきます。この動画の途中に、自分の孫の、よちよち歩きの映像を挿し込んであります。
曲名の「朋美」は、イサトさんのお嬢さんの名前です。娘さんの散歩を見て作られた曲に、うちの孫が歩いている映像を重ねてしまった。図々しいといえば図々しい話です。
ただ、言い訳させてもらうと、楽譜に、そう書いてあるのです。

これが、その楽譜です。中川イサトさんご本人と、お嬢さん2人の写真が載っています。
そして、イサトさんご本人の解説文。最後の一行に、こうあります。
小さな子供がトコトコと歩いているのを見守るようなイメージで、ユーモラスにプレイすればいかがでしょう?
中川イサト『ミスター・ギターマン』より
解説文には、こうも書いてありました。バンジョーのビル・キースと一緒に録音した曲で、「私の娘を見ていてこの曲を作ったのだというと、とても喜んでくれたのを想い出します」と。
つまり私は、「小さな子供がトコトコ歩いているのを見守るように」と指示された通りに弾いて、そのまま孫の映像をつけただけなのです。図々しいどころか、言われた通りにやっている。
そうしたら、その朋美さんご本人から、コメントが来たのです。
朋美の散歩を演奏頂きありがとうございました
中川イサトの楽曲の中では1番愛らしい楽曲と思っております。
父がひよこひよこ歩く娘の姿を想像しながら作ったと生前話してくれました。
私にとっては1番の宝物と思っております
本当にありがとうございました中川朋美
読んで、しばらく動けませんでした。
「ひよこひよこ歩く娘の姿を想像しながら作った」
楽譜に書いてあった「小さな子供がトコトコと歩いているのを見守るように」を、お嬢さんご本人の言葉で、もう一度聞かされたわけです。しかも「生前話してくれました」として。
楽譜の写真の女の子が、この文章を書いている。1980年4月、5才。
作った人が娘を見ていた。楽譜を買った私が、それを読んで弾いた。半世紀近くたって、こんどは自分の孫を見ていた。そして、その娘さんから返事が来た。
そして思ったんです。これ、中学のときと同じことをしている、と。
出して、待って、返ってくる。媒体がハガキからYouTubeに変わっただけで、やっていることは1ミリも変わっていません。「今日もあかんかったか。もうねたろ」と書いていた中学生が、そのまま歳をとっただけです。
なぜギターを弾こうと思ったのか、自分でもさっぱり覚えていません。きっかけらしいきっかけが、思い出せないのです。
でも、こうして並べてみると、少し見えてきます。毎晩ラジオを聴いていた中学生が、ギターを欲しがった。そして、そのラジオも、ギターも、どちらも買ってもらったものでした。
自分で選んだつもりでいたものの、入口は、親が買ってくれた1万数千円の機械だった。五十年たって、ようやくそこに気がつきました。
この話の続き|ギター遍歴の年表
中学でラジオを聴いていた頃から、いまギターを弾いているところまで、年代順に書いています。
- 中学 1970〜72年ごろ|深夜放送とハガキ職人|ラジオ大阪のバチョンに載った中3の投稿(いま読んでいる記事)
- 中学3年 1972年ごろ|ヤマハFG-130のグリーンラベル|中学で買ってもらった最初のアコギ
- 高1の冬 1973年ごろ|チャキのギターとギブソンDove|高1の冬、サウナのバイト代5万円で買った
- 高校 1974年ごろ|ヤングタウン(ヤンタン)に出た|関西フォークとアリス谷村新司の高校時代
- 大学 1977〜81年|ソロギターとマンドリン|大学の部室で中川イサトのタブ譜に出会った
- 1991年 34歳|マーチンギターとドレッドノート|34歳で買ったビンテージギターD-28
- 2002年より前|グレーベンのギターとハカランダ|1937年の木でできたホワイトレディー
- 2000年代|押尾コータローと桜咲く頃|ギブソンLG-2を買い、江坂までギター教室に通った
- 2004〜2011年|モーリスのギターが倒れた|ギター修理をしても手放した130万円のソモギ
- 2010〜11年|個人輸入とビンテージオーディオ|円高の時代、eBayでマッキントッシュを買っていた